江戸時代の縁切り事情
板橋区立郷土資料館(板橋区赤塚5-35-25)で、2016年3月27日まで開催されている企画展「江戸時代の縁切事情」-三下り半・駈込み寺・縁切榎-。
これは恋愛コラムを書く筆者としては見逃せない企画展!といってまいりました。
現在は離婚届の提出により離婚が成立しますが、江戸時代では三下り半と呼ばれる離縁状や駆け込み寺への入寺など様々な方法がありました。板橋宿の名所として知られる縁切榎への祈願も離婚(離縁)の一つの方法だったかもしれません。ここでは、江戸時代における恋愛や結婚模様に触れ、離婚(離縁)にはどのような形式があったのか、また各地に伝わる縁切祈願の名所などを紹介します。出典:http://www.k5.dion.ne.jp/~kyoudo/
(板橋区立郷土資料館展示解説より)
展示は、リアルな離縁状(テンプレは本当に三行半、でも色々書いてあって長文のものも)だったり、江戸時代の様々な結婚事情、離縁事情について展示、解説がありました。
家同士の結婚がほとんどだった江戸時代、離縁してから再婚するためには、離縁状を持ってないといけなかったんですね。
女性は立場が弱く、自分から離縁を言い出せることが少なかったため、夫が離縁に応じてくれない場合は、駆け込み寺に入寺する、という方法がとられたりしました。
けれども江戸時代に、いわゆる幕府公認の駆け込み寺が2カ所しかなかったり、入寺し滞在する際の費用は自分持ちだったりと、駆け込みは相当な覚悟、苦労の上、するものだったとされています。
そこで、なかなか離縁ができない、でも縁を切りたい…と、そんな時は縁切り祈願に頼る場合がありました。
板橋宿にある「縁切榎」も、その縁切り祈願の場所として江戸時代から有名な所の一つです。
縁切榎
板橋の縁切榎に関しての文献は、古くは1749年(寛延2年)からあるようです(前述の企画展の資料より)。
由来としては、榎(えのき)と槻(つき…ケヤキの古い名前)が共生した樹があり、「榎・槻の樹…えのきつきのき→えんのつき(縁の尽き)」ということで、縁切りの樹とされたとあります。
前を通るだけで縁起が悪いとされ、花嫁行列はその前を通らないように迂回経路まで考えられたとか。
徳川家に嫁ぐ、皇女和宮の花嫁行列も、縁切榎の前は通らないよう迂回経路が用意されました。
縁切榎の皮を煎じて相手に飲ませることで、縁が切れるとの話もあり、なんと大正や昭和時代には木屑などが売られていたという記録までありました。
大火で焼けたりしつつも、現在の縁切り榎は3代目で、隠れた名所として今でも縁切り祈願に来る人が途絶えません。
郷土資料館の展示会場でも、絵馬を模した紙に縁切り祈願ができるコーナーがあって人気のようでしたが、私が訪れた時はイベント中で書き込みはできず…それでは見に行こうではないか!本物を!
ということで、都営三田線「板橋本町」駅から徒歩5分ほどにある、現在の「縁切榎」を訪ねてみました。
現在の「縁切榎」
静かな街並みの一角に…ありました、「縁切榎」。
ひっそりとはしていますが、現在でも現役感は漂っています。
本気な人々から皮を保護するためか、ぐるぐる巻きに保護されている3代目。
それでも皮が剥がされている様子(ちなみに目印になる交差点は、まんま「縁切榎前」です)。
奉納されている絵馬からも、色々な祈願が垣間見えます。
男女間、家間の縁切りの祈願はもちろん多いのですが、それだけでなく、病気やタバコやお酒、貧乏などからおサラバしたい!という悪習からの縁切り祈願も多かったです。
筆者は旦那様とは縁切りを望んでいるワケではないので、旦那様の持病と、自分の「すぐグズグズとするトコロ」との縁切りをひっそりと祈願してきました。
普段はスピリチュアル系にはなかなかご縁のない私ですが、やっぱりこういう祈りの場というか、詣でる場所、行為は、気持ちの整理のためにも必要な時もあるのではないのでしょうか。
都内にありますし、自分の嫌なトコロ、なかなか切れない腐れ縁などをスッキリ、キッパリ、バッサリさせたい!という人にはオススメのスポットです。
なにか縁切りしたいな、という人に少しでも解決策をと思い、今回の記事を書いてみました。
どうぞ多くの人が、悪縁・悪習と切れて、良縁と結ばれますように。
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