しかし、一度思いが通じ合って両思いになり、恋人同士になったとする。
そうすると、次第に相手に対して感情を落ち着かせてくれとおもうようになりますよね。
それが束縛という形であったり、連絡を頻繁に取るだとか、お互いの間に色んなルールを設けたり、言葉にしてくれと頼んだり、そういう形で安心させてほしいと思うようになる。
これが私にとっては不思議で仕方がないのです。
いや、正確に言うと両思いになってからも感情を揺さぶられ続けていればそりゃ疲弊してくるし、相手に対しての気遣いもなくなるので、お互いを安定した恋人として認め続け、かつ二人の関係を安心したものにしようとすれば自ずとそうなるのだということもわかるのです。
だから、両思いになった途端、愛情のベクトルがお互いに向き合っていることを知った途端に相手に対して安心させてほしいと求めるのは非常に理にかなっているとは思うわけですが……。
二つ仮説を立てました。
まず一つ目は、「両思いのときのほうが感情の揺れに伴う疲弊が大きい」。
片思いの時に感情が揺さぶられるのとは比べ物にならないくらい感情の揺さぶりに伴う摩擦力が大きくなってしまうので、片思いのときよりも非常に疲弊しやすくなっている、片思いの何倍もの(時間的な)速さで疲弊してしまうから、両思いになった相手との関係を終わらせないために疲弊しない措置をとる、それが安心させてもらうことであるという説。
そしてもう一つは、「片思いのときは感情の揺れを無効化する何か他の力が働いている」。
両思いの時と片思いの時と、感情の揺れ幅が同じであったとしたら、疲弊する速度も同じはずなのに、両思いのときだけ安心を求めるのであれば、片思いのときは疲弊を打ち消す何か他の作用が働いているのではないかということ。
こう書いてみると、どちらの仮説もなんとなく正解の近くをかすめながら外している気がしますね。
片思いをしていても、いつかは「この思いを伝えたい」と思うようになる、それがいわゆる感情の揺れに疲弊した瞬間だとしたら。
一つ目の仮説を少し換言して、普通であれば(=恋愛以外においては)両思いのときほどの速度で疲弊が進行するけれども、片思いであるという不安定な状況に立たされていることを心が容認しているのでその容認しているということが二つ目の仮説で言う「感情の揺れを無効化する他の力」になっているらしいということですね。
ここまできて、ようやく一つ合点がいく結論を得られたような気がします。
感情の揺れがないと退屈になるのは、防衛本能に逆らった心理作用
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