責任転嫁をする
つまりは何でも人のせい、誰かの責任にする人のことを言うのですが、こういう人は本当の意味で不幸体質であると言わざるを得ません。
その理由は大きく分けて二つあるのですが、まずひとつ目が「自分の責任にしないことがその出来事を希薄にし、それに伴い振り返らないために成長出来ないから」です。
人は反省して振り返ってそれを糧にし、成長していく生き物です。
それを人の責任にすることで反省の機会を失い、振り返ることを否定してしまうことで、糧となるはずのものを自ら捨ててしまうことになるのです。
となると、結局また同じ失敗をしたりもっと大きな失敗に繋がる結果となり、「どうして自分ばかり」と不幸体質であると認識してしまうのです。
ふたつ目は、そんなすぐに人のせいにするような人です。
周囲は誰もそんな人に付いてくることはありませんし、場合によっては陰口を叩かれたり直に責められたりなど、当人にとって嫌な出来事が多発することになります。
これについても、陰口とか追及などを不幸と一緒くたに称し、それで不幸体質であると運命に対して責任転嫁をするという、救いようのない思考をするでしょう。
ひと時の仮初めの幸せ、吹けば倒れるような救いを求めて責任転嫁をした結果、倍返しの自業自得が訪れてしまった救えない人のパターンです。
これは確かに不幸体質となるのですが、あくまで自業自得の末にそうなったという前提がありますし、状況上そのようになって然るべきとも言えるのではないでしょうか?
だから同情の余地はなく、その不幸体質から逃れたいのであれば今後何をすればいいのか、ここで詳しくご説明する必要はないのです。
傷付くことを恐れて他人にその傷をなすりつける者は、結果的にもっと大きくなって自分に返ってきてしまうのです。
自分から不幸になろうとする
見出しをそのまま受け止めると少し語弊があるかもしれません。
これはつまり、自分から好んで不幸になろうとしている訳ではなく、その行動が結果的に不幸になるのが見えているのに、自ら火中に飛び込むという意味となります。
例えば抱え込んだトラブルやいざこざなどを、誰かと共有すればいいのに単身で抱え込むとか、総出でそれに当たればいいのに何故か一人でそれをやろうとするなどがあります。
その他、自分からいばらの道を進もうとするとか、あえて苛烈な環境に自分の身を置くなど、一般的な感性からすると考えられないような行動が当てはまります。
しかしこれ、一般的な感性では考えられないことからそんなことはしない、自分から不幸体質になろうとなんてする訳がないと思いますよね?
ところが人というのは、特にこの日本においては、「社畜」と言われている類の人のように、不幸なのが分かり切っているのに働きづくめの人などが少なくありません。
最初の方こそ不幸になる自覚はあったものの、そういう生活を続ける内に感覚に狂いが生じてしまい、自らを滅ぼす道を自ら切り開いているのです。
今のなお、ブラック企業なんて愚かな概念が残っているのは日本独特のもので、それは何より自らを犠牲にする人がそれだけ多い表れとなるでしょう。
基本真面目な日本人の性質を利用して、自らを不幸に追い込ませるほどに狂わせるような企業等は、早急に国が対策すべきなのですけどね。
それには期待出来ませんので、自分の感覚が狂っていることに自覚するようにして、今度は幸せになれる道を切り開けるようにしましょう。
不幸体質の改善方法
ここでは不幸体質の改善について記述しますが、多くの場合は各見出しと逆のことをする、各見出しに対して省みる気持ちがあるなら、多くは何とかなるでしょう。
不幸体質というのは気の持ちよう、心構えの域を出ていませんので、実のところは「気のせい」でしかないと言えるものなのです。
だからその気の持ちようを幸せにベクトルを傾けることが出来たなら、そんな不幸体質という「気のせい」も改善されていくものだと考えられます。
なお、当人の気の持ちようではないのに不幸体質である、気のせいではない不幸体質というのもあるようです。
それは今自分が置かれている環境…つまり家庭だったり、境遇だったりを指すのですが、もっと簡単に言うと「未成年で実家が極貧」であれば、不幸の確率はそれだけ高まりますよね?
まあ貧乏がそのまま不幸に直結する訳ではありませんが、少なくとも幸せを勝ち取れる確率はお金持ちの人と比べると、さすがに譲らなければならないと思うのです。
そういうケースに関してはどうしようもありませんが、努力で勝ち取れるものはたくさんありますので、必ずしも不幸がそのまま続くとは言えません。
それどころか、そういう人はハングリー精神に富んでいることが多いので、結果的には一般的な幸せよりも遥かに大きな幸せを勝ち取ることも少なくないようです。
まとめ
とどのつまり、不幸体質というのは本人の気の持ちようでどうにかなる、改善出来ると断定しても差し支えはないと思われます。
何故なら、それが不幸か否かの判断というのは個人の裁量、考え方で大きく変わってしまうからです。
例えば、極端で且つ不謹慎ですが、命に別状がない入院をしたと仮定して…
「入院してしまった。仕事に差し支える」
「入院した。仕事を忘れてたまにはゆっくりしよう」
上記はそれぞれかなり印象が違うと思いますし、後者は不幸があったはずなのにとても前向きに捉えています。
不幸体質なんて、所詮その程度のものなのです。
だから自分は不幸体質だからと悲観する必要はありませんし、そもそもからして不幸体質にそのような性格はありませんので、悩むものではないと結論付けられます。
気の持ちようでどうにでもなる…と考えれば、長らく不幸体質だった人も気が楽になるでしょうし、改善に向けて意欲的になれると思います。
そして気の持ちようという前提があることから、意欲的であることは改善を進めるに際して極めて有効であると言えるでしょう。
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