自分に自信がない
自分に自信がない方というのは、自分を信用していないことの現れとなりますが、自分を信用できないのですから当然周囲のことも信用していないことが伺えます。
もうこれだけでも猜疑心の特徴と言えるのですが、自分に自信がない方の猜疑心は信用に関することだけではありません。
ではそれが何かと言うと、自分に自信のない方というのは自分を下に見て考えていることから、それが周囲も同じ・・・要するに、周りの人も自分を下に見ているのではないかという錯覚に陥るのです。
だから周囲の人から、何かポジティブなことを言われたところで「内心は蔑んでいる」、「建前ばかり」なんて信用せず、常に疑いの気持ちを持っている訳です。
さらにこのタイプは、周りの人も自分を下に見ているのではないかと思うことから、相手が何をしなくても「勝手に」猜疑心を抱くこともあり、かなり屈折していることが伺えます。
さらに極端になると、すれ違う人に対しても「今笑っただろ!」みたいな、もはや被害妄想の域にまで至ることもあり、ここまで来ると猜疑心を通り越して精神を病んでいると言えます。
大げさと思うかもしれませんが、精神を病むに至る過程において被害妄想を抱く割合はかなり多いと言われているので、この項目に関しては猜疑心のみならずそれ以上の懸念を抱いた方が良さそうです。
なおこのケースにより猜疑心を抱くタイプは、相手にそれを抱いたとしても表向きは絶対に見せず、平静を装って傍目には仲良くしているように見せます。
僅かでも相手にその猜疑心を気付かせてしまうと、それが噂になって変な目で見られるとか、周囲から悪く言われると考えるからです。
もっとも、それでも内心は猜疑心でいっぱいに満たされているのがこのタイプで、自分に自信を持てないことがここまで人を屈折させるのかと、考えさせられます。
内向的でネガティブ
休みの日は邪魔されずにできるだけ自宅で一人でいたい、またその場が盛り上がっていても壁を作る、その他何となく第三者的なポジションを好むなど、そのような内向的な人はやはり猜疑心が強くなるようです。
その理由は上記である程度お気付きかもしれませんが、まず内向的な性格というのは自分の世界を作り上げていて、且つそこに浸っているのが好きなことが分かると思います。
そうでなければ、休日ならいつでもその機会があるにも関わらず、誰かと遊んだりするのをわざわざ蹴ってまで一人を好むなんて、好きでなければありえないからです。
それは確実に「内向的」だと判断でき、そういう人というのは独特な自分の世界を作り上げていることから、自分の世界が正しいと考える傾向があるため、他人の意見に対して怪訝な顔をするのです。
特に自分の世界を否定するような意見や、自分の世界が元になった考え方を否定されると、途端に相手を信用できなくなってしまう・・・要するに、ここで猜疑心となって現れるのです。
それと、内向的な性格の人には大抵の場合「ネガティブ」がセットになっていて、そのネガティブな思考も周囲の意見を否定的に捉える要素となっています。
何せネガティブなのですから、受け取り方もネガティブなことが多いでしょうし、それに伴って猜疑心が生まれても何ら不思議はないのです。
なお、内向的=ネガティブと言うと憤慨される方もいるかもしれませんが、内向的な性格の人が一人が好きなことから、そこはこれまでずっと外向的ではなかったこととなりますよね?
それにより個人としてはそうでなくても、社会的に見れば確実にネガティブであり、そこは個人がどう思っていても社会や周囲がそう思っているのですから覆しようがないのです。
人間不信
これはとても簡単ですね。
人間不信ということは人を信じられない、信じるに値しない、だから人は疑わしい、信用できない、だから猜疑心を抱くのです。
人が信用できないのであれば、その人の優しさも厳しさも温かさも冷たさも何もかも、その全てが信用できない疑わしいものでしかありません。
もっともこの場合、人間不信だから猜疑心を抱くと言うよりも、猜疑心から人間不信に至ったという方が、順序的には適正だと言えるかもしれません。
何にせよこの場合の猜疑心は、他の項目と違ってごく僅かな人を信用する、また疑わない心を全て捨て去っていることが伺えます。
ですので、この経緯で猜疑心を抱いているタイプは仕事でも全く馴染めていなかったり、このように言うのは申し訳ありませんが「引きこもり」とか、「社会不適合者」に多いと言えます。
やはり猜疑心を抱えては社会で満足に活動はできませんし、社会が人との関わりが極めて重要視されることから、そこは納得していただかないと困るところです。
それでも何とか社会に馴染もうと人間不信ながら、猜疑心を抱えながら努力されている方はまだ救われる可能性がありますが、人を完全に拒絶してしまうと世捨て人のようになるでしょう。
このように、人間不信からの猜疑心というのは社会で生きるためには致命的ですので、そのほとんどの方がドロップアウトしてしまう傾向にあります。
どういう経緯でそこまで人を信じられなくなったのかは分かりませんが、猜疑心を抱く経緯によっては上記みたいに、人の社会で生きられなくなるほどのことになると頭の片隅にでも置いてもらえると幸いです。
人生の幅を狭めてしまう
猜疑心の強い人というのは、例外なく人生の幅が狭いと断言できます。
何故なら人を疑うことで得られるものが得られない、人を疑うことで本来あったチャンスを掴めない、人を疑うことで人との関係を進展させることができないからです。
おそらく猜疑心の強い人というのは上記を見て、「騙されたときのリスクが高い」「騙されないための自衛をした」と思うのでしょうが、それにどれだけの意味があるのでしょうか?
人が人を騙す際は、当然自身に大きなリスクがあるのはもちろん、そのリスクをペイできるほどのメリットを得られなければ、そんなことをする必要も理由もないのです。
もしあなたが猜疑心の強い人だとしたら、まずあなたにはあなたを騙すことで、リスクよりメリットとなる何かがあるのでしょうか?
絶対にないと思います。
それこそとてつもなく大きな財産を所有していたり、値千金の何かを所持していたり、またはあなたが社会的地位が極めて高い人であれば、そんな気持ちになっても仕方がありません。
ですが猜疑心の強い人はほとんどの場合一般人で、そんな大きなメリットなんて到底所持している訳がないのです。
要は猜疑心の強い人というのは、病的な要素がないのであれば「ただの自意識過剰」なだけなのです。
辛辣かもしれませんが、これまでありもしない疑惑を抱かれた人の事を考えれば、その程度のことでとやかく言ってはいけませんし、その資格もありません。
ですので今一度人との関わりを見直してみて、人がどれだけ自分にいろいろなものを与えてくれるかを再認識して下さい。
そうすれば、その猜疑心は少しずつ小さなものとなるでしょう。
※表示価格は記事執筆時点の価格です。現在の価格については各サイトでご確認ください。
※本ページはプロモーションが含まれています。